【真田丸】石田三成、家康の動きをネタバレ!【関が原】
大河ドラマ『真田丸』では、戦国時代から江戸時代への分岐点をドラマティックに描かれるでしょう。
中でも、1614~1615年大坂の陣は主人公の真田信繁(真田幸村)の活躍が脚光を浴びる合戦の代表だと思います。
ただ、その前の1600年の関ヶ原の戦いも、歴史の大きな分岐点になったことは言うまでもありません。
ここでは真田丸および関が原の戦いにおける重要人物、石田三成と徳川家康の動きついて解説します。
石田三成と徳川家康
1600年に起こった関ヶ原の戦い。
石田三成擁する西軍と、徳川家康擁する東軍が、それ以前からの憎しみ、恨み、辛みを一気に爆発させた一戦です。
もちろん、その前後に力を持っていた大名や武将の複雑な心模様が、関ヶ原の戦いでの裏切りを生み、勝敗を左右する結果になるわけですから、そこをどう面白く描かれるかは真田丸に期待するひとつの大きな要素であります。
石田三成の世間のイメージを調べてみたところ、
「秀吉、命!っていうぐらい尽くした人だよね。」
「秀吉に最初に会った時に、3回(熱・中・温)に分けてお茶をだした人でしょ?」
「感じ悪くて、友達少ないっていうよね。」
「真の友人と呼べる人はいて、その人の絆は強かったみたいね」
という声が多かったです。
逆に、徳川家康のイメージは、
「三河の古狸でしょ!」
「日本の土台を作った人だと思うよ。」
「信長が亡くなる前と後では家康の印象がまるで違うね。」
「忍耐と健康オタクってイメージかな。」
というイメージを持つ人が多いようです。
石田三成も徳川家康も様々な文献に登場しているので、一般の方々が見る文献や見る立場によって意見が変わってくるようにも思えます。
家康にはめられた三成
1600年より少し前に遡ってみましょう。
石田三成は、徳川家康の策謀で幽閉されてしまいます。
なぜでしょうか?
関ヶ原の戦いから約1年前。
豊臣秀吉の大の仲良し、前田利家がなくなった年の事です。
利家がいなくなったことをいいことに、当時から三成と仲の悪かった加藤清正・福島正則ら7名の武将が暗殺計画を立てます。
事前に察知した三成はなんとか姿をくらましますが、このまま隠れているわけにもいきませんよね。
そこで仲裁役になったのが、石田三成と対立していたはずの徳川家康です。
清正と正則を可愛がっていた家康は二人を叱って止めさせ、その一方で三成を謹慎させる事でこの騒動を納めました。
清正と正則は、猛将と言われるほどの強者ではあるものの、猪突猛進型というか一度頭に血が昇ったら進むのみというところがあります。
だからこそ、五大老でもあり慕っていた家康の言うこと位しか聞かなくなっていたのかもしれません。
この三成襲撃計画は、その性格を知っていた家康が、二人をけしかけたという説もあります。
助けるふりをして、本当の狙いは三成を動けなくする事だったというわけですね。
さすがの狸っぷりです。
関が原の戦い開戦!
謹慎に追い込まれたことで力を削がれていった石田三成ですが、絶好のチャンスが訪れます。
家康軍が信州・東北に出兵して、兵力が手薄になったのです。(家康自身は江戸城にて静観していたと言われています)
これを知った石田三成は、
「もう、このタイミングしかない」
「いざ、家康を退治しよう!!」
ということで仲間を募って、牙を剥きました。
ひそかに?活躍する真田信繁
このとき、真田丸の主人公・真田信繁(幸村)は何をしていたのでしょうか?
家康の長男・秀忠率いる軍と、信州の上田城で戦っていました。
徳川軍38000人vs真田軍2000人という圧倒的な兵力差でしたが、秀忠は大苦戦。
おかげで、徳川秀忠は関ヶ原に間に合わず、父である家康をフォローすることができませんでした。
秀忠が率いていた兵は、家康軍の半分の兵力。
これは家康にとっては大誤算でした。
もし秀忠が関ヶ原に到着していれば、戦況はまた違ったものになったでしょう。
恐らくこの辺りの信繁vs秀忠の展開は、真田丸でドラマティックに描かれると思います。
どのように描かれるのか、今から楽しみです!