真田丸の最終回・結末までをネタバレ
NHK大河ドラマ真田丸最終回・結末までのネタバレです。
最終回や結末がどうなるのか知りたくない方は読まないよう注意して下さい。
※追記
以下は、真田丸中盤から最終回までの流れを史実を元にまとめたものであり、ドラマの最終回のあらすじとは異なります。
もちろん流れとしては合っていますし、全体像を振り返るにはぴったりですが、純粋に最終回のあらすじだけを見たい方は、以下のページをご覧ください。
真田丸 最終回までのあらすじと結末をネタバレ
上洛に応じない昌幸を成敗するよう秀吉に命じられた家康は、駿府城に入り、真田攻めの準備を始める。
それを知った昌幸は上杉に助けを求めるが、秀吉に「真田を助けるな」と言われた景勝は動けない。
真田家は孤立無援の窮地に立たされてしまった。
もう後がない昌幸に、信繁は上洛を勧める。
これまで上洛の要請を無視し続けてきた昌幸だったが、世の動向を見抜く信繁の眼力に間違いはないと考え、ついに上洛を決意する。
秀吉は本気で真田を潰そうとは考えていなかったので、この報を聞いてすぐに家康に出陣を辞めさせる。
秀吉の目標は、家康に切り替わった。
上洛要求に応じずにいた家康のもとに実母のなかを人質として送る。
すると家康は、ついに重い腰をあげて秀吉に従う事を決めた。
家康が秀吉に臣従したことにより、第一次上田合戦以降、にらみあいの状態が続いていた昌幸と家康はついに和睦する。
秀吉の命によって、昌幸は家康の与力大名となった。
これで真田家は領土を安堵され、ついに大名として認められることとなったのだ。
またしても沼田領が問題に
昌幸・家康・景勝を臣従させ、秀吉は波に乗る。
薩摩の島津義久を降伏させて西日本を平定した。
続いて関東と奥州の平定に乗り出し、全権を家康に命じる。
これにより危機に陥ったのは上洛を断り続けていた北条氏。
家康との同盟も形骸化する事に。
結局、秀吉・家康の圧力に屈した北条氏は、北条氏規が上洛して秀吉に従属した。
これにより関東の領土が確定なされたと思ったが、一つの問題があがった。
かねてよりの懸案事項である沼田領の問題だ。
秀吉の裁定で真田氏が厚遇されると、北条家臣の猪俣邦憲が真田氏の名胡桃城を急襲して陥落させた。
これに昌幸と秀吉は激怒。
北条討伐の兵を起こす。
世に言う小田原征伐である。
小田原征伐、そして天下統一
天正18年2月。
各地の大名たちが北条の領地へ侵攻を開始した。
秀吉も20万の兵を率いて関東に向かう。
昌幸は、信幸、信繁と共に上杉景勝、前田利家がいる北国軍に参加。
真田軍が先鋒となり、碓井峠で激しい戦いを繰り広げる。
続いて松井田城を攻めるが、守りが固くなかなか落とせない。
3月末には秀吉軍は箱根まで到達していた。
そして4月末、なんとか松井田城を陥落させた北国軍は、上野の城に次々と攻め入る。
激戦の末、八王子城を陥落させ、次は小田原城の包囲作戦に加わった。
完全に豊臣軍に包囲された小田原城。
万策尽きた北条氏政・氏直親子は、ついに降伏したのであった。
北条氏の旧領は家康に与えられた。
これを機に、家康は本拠地を駿河から江戸へ移す。
問題続きだった沼田領は、そっくり真田に返された。
昌幸は上田を、信幸は沼田を統治する事となった。
その後、秀吉は奥州の各大名に恭順を求め、ついに秀吉による天下統一が達成された。
朝鮮出兵
天下を手中に収めた秀吉は、自らを太閤と呼ばせ全権を掌握。
相談役として重用していた利休と確執が生まれると切腹させた。
秀吉は明国やインドまでも従えさせるという壮大な夢を見るようになっていた。
文禄元年(1592)、ついに豊臣軍は朝鮮への出兵を開始。
昌幸・信幸・信繁は肥前名護屋へ出陣する。
開戦当初は勝ち戦を続きの豊臣軍だったが、やがて朝鮮水軍の前に苦戦を強いられるようになる。
制海権を失った豊臣軍は、物資の輸送路が断たれてしまう。
窮地に陥った豊臣軍は講和を模索するが、明側が講和条件に難色を示し交渉は決裂。
秀吉は再び朝鮮出兵を決意し、慶長2年(1597)には大軍の動員計画を発表した。
しかし翌年、秀吉が62才で死去。
豊臣軍は撤退して終戦する。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、豊臣政権の派閥争いは激化し、石田三成は失脚してしまう。
そんな中、上杉景勝が会津に帰国し、家康の上洛要求を拒否した。
これに怒った家康は、上杉征伐の兵を挙げる。
すると、石田三成が家康を弾劾して挙兵し、関ヶ原の戦いに至る。
信繁は、昌幸とともに石田方の西軍へ参加。
信幸は妻が本多忠勝の娘(小松姫)のため東軍へ参加。
兄弟で敵同士になってしまった。
昌幸と信繁は、上田城に籠城し家康の息子・秀忠が率いる大軍と奮戦。
圧倒的な兵力差にも関わらず、秀忠軍を撤退させることに成功する。
しかし、昌幸と信繁の善戦もおよばず、西軍は関ヶ原で敗北を喫する。
敗軍の将は死罪になる。
しかし二人は、信之(信幸から改名)と本多忠勝のはからいで、高野山への幽閉だけで済んだ。
そして、その麓の九度山で隠居生活を送ることとなった。
大坂冬・夏の陣。信繁の最期
慶長16年(1611)に父・昌幸が死去。
それから3年後、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し戦が始まった。
豊臣氏は浪人を集め、九度山の信繁にも召集の声がかかる。
豊臣家への恩義を感じていた信繁は参戦を決意。
九度山を脱出して大坂城に入った。
やがて迎えた大坂冬の陣。
信繁たち浪人衆の野戦案が却下され、大坂城での籠城策が決定した。
そこで信繁は、守りの手薄な城の南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築いた。
信繁は鉄砲隊を用いて敵兵に大打撃をあたえ、徳川勢を撤退させる活躍を見せる。
結局、大坂冬の陣は和睦によって一旦終了を迎えた。
真田丸は、堀の埋め立て工事にともない取り壊しとなった。
そして和睦から半年後、大坂夏の陣が勃発する。
豊臣方の戦況は苦しい。
しかし信繁は家康の首だけに狙いを定め、真正面から家康本陣へ突撃を敢行、死に物狂いの奮戦で活躍する。
信繁は、死を覚悟させるほど家康を追い詰めたが、兵力で勝る徳川勢に挽回され、四天王寺近くの安居神社の境内にいるところを討ち取られた。
享年49歳であった。
信繁の死の翌日、大坂城は陥落し、豊臣秀頼や淀殿たちは自害する。
こうして信繁の奮戦むなしく、豊臣家は滅亡したのだった。
以上、NHK大河ドラマ真田丸 最終回までのあらすじと結末のネタバレでした。
戦死の最終回でなくてよかった。もしかしたら、ホントに首をとったかもね、的な。
歴史にたらればはないけど、映画真田十勇士のよう、曲げて描くのも一つ
人生末路を迎えてて、家康を撃ったとて徳川の代に変わりはなかったでしょう
差し違いで、終わる最終回でもおもしろいだけどな
真田幸村の変わりに、佐助が影武者となり、斬り込んで行くも、佐助も忍実で難を逃れる!
真田幸村は九州に逃げ延びた。のであった。
の終わり方も良いのかも!
確かに
大野治長大蔵卿親子が歴史を変えたの如く描かれていたけど、万に一つ夏の陣で豊臣方が勝利したとしたら、再び乱世に戻りもっと酷い世になっていたでしょう。家康曰く戦乱の世は終わり太平の世に生きられるよう進化せねばならぬ。は実に重い言葉です。
確かに薩摩生き延び説の方が良かった
茶々と秀頼と幸村と大助で幸せになる感じのやつ
直虎に大坂夏の陣まで放送しますので乞うご期待!