【真田丸】明智光秀と真田幸村の意外な共通点とは?
真田丸の明智光秀のキャストに、岩下尚史が選ばれたと発表がありました!
真田幸村こと信繁は1567年とか1570年の生まれと言われますから、1582年の本能寺の変の時には、15歳とか12歳だったと推測できます。
本能寺の変が描かれるとすれば、信繁の少年時代に当たるわけですし、かなり早い段階で登場される事が予想されますね。
ただ、信長のキャストが発表されていませんし、信繁の少年時代を演じる子役キャストも未発表なので、本能寺の変は描かれない可能性が高いですね。
どちらにしても明智光秀は早い段階で登場すると思いますが。
明智光秀ってこんな人
明智光秀と聞いて誰もが思い出すのが1582年の本能寺の変でしょう。
天下人で主君の織田信長への裏切った歴史的事件です。
本能寺の変のあと、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍に攻められ、三日天下と言われるほど、勝者から敗者へと急激な人生の移り変わりを味わいました。
「裏切り者の悪人」のイメージが強いですが、知略に長けた優秀な人物だったと言われています。
旧体制を守ろうと人生をかけた
明智光秀は、京の政や足利政権を重んじてきました。
それには、自身が美濃から渡り歩いてきた浪人時代に京で認めてくれ、側に仕えることを許した足利家に対する感謝の念もあったのでしょう。
だからこそ、織田信長の革新的でありながら、一見すると横暴にも見える政治手法を受け入れられず、反発する感情が本能寺の変へかきたてていく事となっていったのではないかと思います。
明智光秀側からすると、ただただ古き良き京の政治を守りたかった。
すべてを壊してしまいそうな織田信長から守りたかったという『優しさ』なのだと思いました。
真田幸村は曲がったことが嫌い?
一方、真田丸の主人公である真田幸村。
真田家は、家系を守るためには、武田・上杉・村上・織田・徳川・豊臣・北条など近隣諸国と同盟を結んだり、戦をしたりと繰り返して生き残ってきたことは、よく知られています。
そんな中でも、真田幸村と父・昌幸は徳川家と大きな戦でぶつかることがありました。
真田幸村は、特に徳川家康のやり方がゆるせなかった。
豊臣秀吉が死に、前田利家が死んで、自らの力を増大にしてく徳川家康に対し、必死で豊臣家を守ろう、必死で旧体制を守ろうとした真田幸村がそこにいたのです。
明智光秀と真田幸村の共通点
真田丸の主人公・真田幸村と明智光秀には共通する点が見受けられます。
真田幸村は、徳川家康が権力を強め豊臣家を滅亡へと追い込んでいく中、「義に反する」とあくまで徳川家康から豊臣家を守ろうとした武人。
なんとなくですが、知の明智光秀。
武の真田幸村というイメージは皆さんもお持ちだと思います。
では、そんな二人に共通する事とはいったい何でしょうか?
- 負け組?
- 考えなしに信長暗殺に動いた人?
- 先見性のない人?
- 保守的な人?
真田幸村は、豊臣家から徳川家の時代への転換期に、時代の流れに抗って豊臣方につきました。
いろいろな文献を見ている中で、その二人がとった古きものを守る行動に共通な部分があるように、その根底にあった想いにも共通のものがあったように思われます。
それは、一言で言ってしまえば『優しさ』です。
青臭くも、抽象的にも聞こえる言葉ですが、日本人が愛してやまない言葉の一つでもあります。
明智光秀と真田幸村は、旧体制への『優しさ』を持ったが故に、切ないまでのまっすぐな気持ちで生涯を終えていったのではないでしょうか。
こんな二人の生きざまを真田丸でどう描くのか、とても楽しみです。
私は、明智の薄いのでしょうが、縁がある子孫だそうですが!明智さんは、情があった人であったそうですよ。頭の良かった方でも、あった方であったようですよね。
豊臣にころされておらず、栃木に徳川がかばい日光のお寺にかくまりお寺の門に桔梗の紋が残っているようです。明智平は、やはり!生存の形であるとも言われておりますよね。❤